多摩ぐるぐる

東京都下『多摩地域』を中心に「食べ歩き(ランチ&ディナー)」「ドライブ」「旅行」「日々のあれこれ」を綴るブログ。

大悲願寺の白萩@あきる野市横沢〜独眼竜政宗ゆかりの古刹で花見

 



最寄りのJR五日市線武蔵増戸駅から歩いて15分ほどのところ、秋川の流れに削られた狭い台地の端に小高い山を背負うようにして、鎌倉時代初期の創建と伝えられる西多摩屈指の古刹があります。

源義経にも従って源平合戦で数々の武功を挙げた多摩のヒーロー、平山季重によって建立された
『大悲願寺』です。OLYMPUS DIGITAL CAMERAこの平山季重という猛将、将軍頼朝の不興を買ったりしながらも、鎌倉幕府成立後の内部抗争や粛清をくぐり抜け、最後まで古参武将として生き延びるんですよね。そこがまた素晴らしいところです。

この大悲願寺は、9月下旬から10月初旬頃に咲く、独眼竜・伊達政宗ゆかりの【白萩の花】でも有名なので、週末を利用してお花見に行ってきました。

車で行くなら、JR武蔵五日市駅前から五日市街道を700m東に戻り、五日市橋の交差点を旧道に入り、さらに狭い道を山側に分岐しながら進んで踏切を越えると辿りつきます。

立派な山門の前に、駐車スペースも用意してくれていてドライブで立ち寄るにも便利。
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駐車してその見上げるような山門をくぐると、まず見えてくるのは観音堂。
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こちらは江戸時代に建立されたお堂なのですが、外壁に飾られた極彩色の彫刻に見応えがあります。
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これは閻魔様と地獄の光景。
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地獄と極楽の様子がちょっとコミカルに、だけどよく見ると怖ろしげに表現されています。
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こちらの彫刻は、大きな水瓶に落ちて溺れている友人を助けるため、高価な陶器であっても躊躇せず割って助けたという中国の故事が題材。
友情と人命の尊さを説いています。
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こうして見ると江戸時代の寺社建築には、仏教と儒教を融合させた道徳教育的なものを広める役割が持たされていたようですね。
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観音堂をお参りした後、右手に進んでいくと・・・
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今度は本堂が見えてきます。
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有名な白萩が植えられているのは、この本堂の周辺。
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もう2,3日早い方が、鮮やかな白色だったでしょうかね?
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萩は太い幹のある木ではなく、地面から細い幹が毎年伸びる、草に近い姿のマメ科の植物です。
ニョキニョキ伸びてくるので、形を整えるのが大変そう。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA萩は「秋の七草」の一つでもあります。
派手さはありませんが、可憐な小さな花を咲かせています。
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ちなみに、花札の「萩と猪」に描かれている萩の花は赤色ですね。
萩の花と言えば、この淡い小豆色のような赤花が一般的なようです。
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ここの白萩にも、赤い花が混ざった部分がありました。
どこか近くの赤花の萩と花粉がまざったのかな?
これはこれで、変化があって綺麗です。
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ところで、江戸時代初期には、仙台藩主・独眼竜の伊達政宗公の末弟である秀雄がこの大悲願寺の住職を務めていました。

その縁から政宗公も度々この寺を訪れており、その際に見た庭の「白萩」を大変気に入り、後日、手紙を送って分けてもらったそうです。

その手紙が「白萩文書」とか「白萩所望状」と呼ばれて、今も現存しています(残念ながら非公開)。
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「御庭之白萩一段見事候キ 所望致候」
(=お庭の白萩がとっても綺麗だったので、ちょっと頂戴ナ)
・・・とあります。

政宗公、白萩にベタ惚れです(笑)
有名な政宗公のセキレイの花押も押してありますね(喜)

派手なパフォーマンスでカブキ者とか伊達者とか呼ばれるようになった伊達政宗公が、可憐であっても地味な萩の花に執着するのは意外な感じもします。

しかし、萩の花は万葉集などにも数多く詠まれた花で、その枕詞は彼の領国内の地名である「宮城野」。
荒地だった宮城野に、土地が痩せていてもよく生えるマメ科の萩の花が咲き乱れていた情景が歌枕になっています。

派手な乱暴者なだけではなく和歌にも通じた教養人であった政宗公ですから、領国を代表する「萩」の見事な白花に心を奪われてしまったのでしょう。


さて、ここまでの話でも十分に興味深いのですが、一部の歴史マニアの間ではさらに伊達家に関するミステリーな噂話が流されています。

そもそも政宗の弟と言えば有能であったために母親に溺愛され、伊達家を二分しかねない状況に陥ったため、小田原参陣(秀吉の北条攻め)の直前に政宗に斬殺されたはずの小次郎しかいません。

(少なくとも父・輝宗と正室の義姫の間には。側室の記録はなく不詳。最上の娘である義姫は気が強かったそうだから、輝宗に側室はいなかったかも?)

ですから、住職である末弟の秀雄とは実はこの小次郎のことで、実際には殺されずに出家させ、密かに匿われていたという説。

これは弟の存在を消して伊達家中を政宗に一本化させるためと、弟の反乱未遂に伴う混乱を小田原参陣が遅れたことの秀吉への言い訳にも使ったのでしょうから、小次郎が生きていることは隠し続ける必要があった・・・なんて話です。

もう一つ。
政宗の長女・いろは(五郎八)姫は、徳川家康の六男・松平忠輝の正室となりますが、忠輝は何故か家康に嫌われ続け、二代将軍の時に罪に問われて改易となっていまいます。
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いろは姫は離縁され伊達家に戻されますが、江戸の伊達藩邸に戻った時には懐妊しており、そのあと密かに男子を出産します。
男子は大悲願寺の秀雄の元に秘密裏に預けられ、6歳になった頃、政宗が大悲願寺を訪れた際に謁見し、仙台に連れ帰ったのだろうという話です。

政宗からの「白萩文書」には、宛先が「彼岸寺」とあるだけで個人名がないのですが、手紙の冒頭に「先日はお会いできて本望」との記述があります。
これは元気に成長した五郎八姫の「隠し子」に会えたことが本望ということで、「白萩を送れ」の意味は、「隠し子を仙台に連れ帰るから送れ」の意味だと言うのです。

いろは姫に子供がいたのならば、その子は徳川家康と伊達政宗の孫にあたるのですから、血筋としてはサラブレッド中のサラブレッド。
最後まで天下取りを狙っていたとされる政宗公としては、チャンスがあれば大将としてかつげる大事な人材になるのでしょう。

ただ、その後の徳川の治世は盤石で、政宗公が付け入る隙もなく、その子は母である五郎八姫のそばで、黄河幽清和尚として生涯をおくったそうです。

天下取りのためだったか?、それとも単に肉親への愛情のためだったのか?、
どちらにせよ世を謀ってでも身内を守ってやろうとした話で、親殺しの乱暴者だったとされる政宗公は、実は情に厚い面もあったのではと思わされるエビソードです。

なんだか歴史のロマンですね。
史実かどうかはわかりませんが。


まぁ、史実として確かなのは、政宗公が大悲願寺を訪問したのにあわせて、秋川で鮎漁を楽しんでから帰ったこと。
さすが自ら料理もしたという、グルメな政宗公です。

私もこの後、秋川の鮎を味わってから帰ることにしましょう(笑)。


もうランチを食べてしまっている方は、この時期、境内で白萩を見ながら、お抹茶とお菓子を300円でいただけるようです。
なかなか風情がありますので、こちらも是非どうぞ。


【真言宗豊山派 大悲願寺】

▪️所在地  あきる野市横沢
▪️駐車場  あり
▪️最寄り駅 JR五日市線 武蔵増子駅下車 徒歩15分 武蔵五日市駅からでも20分



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