神田駿河台の山の上ホテルに、文豪気分で宿泊した週末。
チェックイン後、ホテル内でまったりしていても良かったのですが、散歩がてらランチをとりに神田須田町界隈へ。
昭和初期の建物とグルメ
駿河台から歩いて10分ほどの、かつて連雀町と呼ばれていた神田須田町から淡路町にかけての一角は、昭和20年の東京大空襲による火災を奇跡的に免れており、現在は周囲に高層ビルが立ち並ぶ中、昭和初期の木造建築を所々に残す、どこか懐かしくて気が休まるような町並みとなっています。
おそらく神田川や靖国通りが防火帯の役割を果たしたのでしょうが、近隣の同じような地形のエリアは焼け野原になっていますから、当日の風向きなど、たまたまの偶然が重なったことによる奇跡なのでしょう。
この写真の商店なんて、小金井の江戸東京たてもの園で見た「看板建築」ですよね。
博物館レベルの建物が、今も普通に営業していてビックリ(喜)
「看板建築」とは、大正12年の関東大震災後に拡まった商店建築の様式。
防火のため木造家屋の前面にのみ、装飾を兼ねた銅板を貼り付けています。
それまでの耐火建築と言えば、川越などに残る「蔵造り」の家並みが思い浮かびますが、地震時には揺れで土壁が崩落してしまい、十分な防火性能を発揮できなかったようです。
その後、一時期の東京の商店街を形づくっていた看板建築も、地震にも火災にも強い鉄筋コンクリートの建物に置き換わり、次第に姿を消していきます。
近くにかつてあった万世橋駅は、大正時代の初めごろまでは中央本線の起点駅となっていて、路面電車とも接続する一大ターミナル駅であったことから、この神田須田町周辺も、東京一の繁華街の一角となっていたそうです。
その頃からあった老舗の料理店も、いくつかは戦災で焼失することなく残されたため、ここは本物の大正から昭和初期の味を、当時からある建物内で楽しめる、さながら小さなテーマパークのようで、軽く気分が上がります⤴︎。
町を歩くと、ともに老舗の、あんこう鍋の「いせ源」と、甘味の「竹むら」は通りを挟んだすぐ斜向かい。
「いせ源」の奥側には、鳥すきの「ぼたん 」。
この三軒の建物が並んで残っているだけでも、奇跡的なことに思えます。
こちらは戦後の建物でしょうけど、三角地に建つ、ちょっと揺すると壊れそうな木造モルタルの「六文そば」なんて、寂れっぷりが素敵すぎ(喜)
週末は休みですけど、平日には周辺のビジネスマンが大勢集う立ち食い蕎麦店とのこと。
二ツ目の落語家専用の寄席、「神田連雀亭」の路地の突き当たりには、「かんだやぶそば」。
この寄席は、それほど古いものではありませんが、街の風情にとても合っていますね。
藪そば御三家筆頭 「かんだやぶそば」
さて、昼食にお邪魔したのは、藪そばの伝統を引き継ぐ超有名店「かんだやぶそば」さん。
藪そばの創業本店は、幕末から文京区の団子坂にあった「蔦屋」という蕎麦屋で、近くに藪があったから「藪そば」と呼ばれていたとか。
その蔦屋は、滝や池のある広大な庭に囲まれた店で、客は一風呂浴びてから食事をするという優雅なスタイルで人気を得ていたそうです。
蔦屋自体は日露戦争時に閉業したのですが、支店である「かんだやぶそば」さんは、その面影を最も残すお店となっています。
一度火災で燃えてしまったときはビックリしましたが、無事に復活して何より。
ちなみに藪蕎麦御三家のあと2つは、浅草の「並木」と、上野の「池の端」ですが、池の端は閉業してしまいました。
「蕎麦なんてものは、サッと食べてスッと帰るのが粋ってもんなのに、元々嫌いな行列なんかに並んでられるかっ」と言いたいところですが、そんなことでは一生ここの蕎麦を食べる機会がなくなってしまうので、ここは大人しく列に並びます(笑)
幸い20分までは待つことなく、店内へ案内してもらえました。
店内は大きな広間にテーブル席が並び、座敷席は見当たらない、老舗の蕎麦屋にしては意外な造り。
確かにテーブル席の方が、すぐ膝が痛くなる年寄りにはありがたいので、文句はありません。
席数は多いのですが、ぎっしり満員の盛況。
さすがの有名店です。
安くはないけど、高すぎるってこともない価格設定。
季節のおすすめもあるので、何度来ても飽きないかも。
酒菜として、「天たね」とか「天抜き」とか「鴨抜き」なんて、老舗蕎麦屋らしいメニューが見られます。
何が「抜き」なのかと思ったら、あぁ「蕎麦」を抜いたものを、酒のツマミにするのね。
席数が多いだけあって、花番さんも大勢います。
あちこちから注文が飛んでくるのに、テキパキとしつつ、応対が丁寧なのはさすがの老舗クオリティ。
でも、隣の席の注文をずいぶん間違えてましたけどね(笑)
注文を調理場に通すときに、伝票を使わずに、この女将さんが独特の調子で「せいろう いちまぁーい」などと掛け声を通す様子も、かんだやぶそばの伝統であり名物。
でも、もっと大声で通すのかと想像していたけど、実際聞いてみたら思ったよりは小声だったな。
百聞は一見に如かず。
注文したのは、オーソドックスに「せいろそば」と・・・
妻殿が「鴨南蛮そば」。
蕎麦は蕎麦粉10に小麦粉1の、喉越し重視の外一蕎麦らしいです。
整い過ぎているくらいの均整な蕎麦なので、機械打ちなのでしょう。
薄く緑色した細打ち蕎麦なので、実の外側の薄皮まで挽き混んだ蕎麦粉を使用しているのかと思ったのですが、お品書きを読んでみると、そうではなく「クロレラ」を混ぜた色なのだとか。
「えぇっ! 老舗の蕎麦屋でクロレラかよ」ってガッカリしたのですが、昔から新蕎麦前の蕎麦粉の色が悪くなる時期に、そばもやしの青汁を打ちこんでいた、いわば創業以来の伝統の現代版なんだそうです。
うーん、伝統かぁ。
やぶそば伝統の辛いつゆに1/3ほどつけて食べると、まぁ絶品とは言わずとも、喉越しの良い普通に美味しい蕎麦となりました。
お酒は飲まなかったのですが、気分だけ味わおうと「鴨ロース」と・・・
「牡蠣の南蛮漬け」も注文。
こんな酒菜で燗酒とかビールを楽しんでから、締めに蕎麦を食べるのが、本来の満足度の高い楽しみ方なんでしょうね。
蕎麦湯は、特に蕎麦粉を溶き足したポタージュ状のものではなく、サラッと色の薄いもの。
老舗ですからね、これも昔ながらのスタイルのはず。
超有名な「かんだやぶそば」の蕎麦でしたが、つゆの味や蕎麦の喉越しはともかく、蕎麦の風味自体だけなら、もっと美味い店は他に沢山ありますね。
でもここは、店の雰囲気を含めて伝説的老舗蕎麦店のスタイルを引き継ぐ、もはや伝統文化を楽しむための店なんだと思います。
この江戸前蕎麦のスタイルは、一度は楽しんでみる価値があるでしょう。
一種のエンターテインメントです。
池波正太郎が通った甘味処「竹むら」
食後のデザートは、昭和5年創業の老舗甘味処おしるこ「竹むら」さんへ。
戦災を免れたからこそ残った、この素晴らしく風情のある入母屋三階建て木造建築は、東京都選定歴史的建造物となっています。
店内にはテーブル席と小上がりがありますが、それほど大きなお店ではありません。
ここは酒も飲むけど、甘味も大好きだった、鬼平犯科帳の池波正太郎が通った店。
名物は、お汁粉と揚げまんじゅう。
看板商品のお汁粉は、北海道産小豆を使用した自家製餡。
秋冬には、この揚げまんじゅうも人気。
汁粉と一緒に食べても、余裕で平らげらる大きさ。
こちらは持ち帰りも可能。
藪蕎麦で蕎麦前も含めて楽しんだ後でも、ここの汁粉ならイケるでしょう。
池波正太郎も、酒飲んだ後に汁粉を食べてたそうですし。
まだある老舗「ぼたん」「いせ源」「神田まつや」
その他にも、この夜に予約を入れている、明治末創業の鳥すき焼き「ぼたん」、
創業は江戸時代で、建物は昭和5年に建てられた、こちらも都選定歴史的建造物であるあんこう鍋「いせ源」、
こちら池波正太郎が「何を食べても美味しい」と言って通った、手打ちそば「まつや」など、一度は行ってみたい老舗の名店が並んでいます。
まつやは、もし空いていたらもう一杯、蕎麦でも食べてやろうと目論んでいたのですが、やっぱり行列していたので諦めました(泣)
しかしまぁ、この狭いエリアに、よくもこれだけの老舗の名店が残ったものです。
一方、ここの初代店主が、夏目漱石に振る舞った洋風かき揚げが名物になっている「松栄亭」は、なんと閉店してしまった模様。
私の学生時代には、下町の洋食屋的な、ボロいけど味のある木造モルタルの店でした。
大正レトロ風のビルに折角建て替わったと思ったのに閉業とは…..
名の知られた店でも、個人経営の料理店を続けるってのは難しいことのようです。
老舗が奇跡的に残っているとは言っても、この街もいつまでも同じ姿であるとは限りません。
今回行けなかったお店にも、特にいせ源さんには、是非行く機会をつくりたいと思っています。
「いつまでも、あると思うな江戸の味」です。